兵庫県佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦い
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- 兵庫県佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦い (タツ, 2021/8/1 20:50)
- 兵庫県佐用町上月城と黒田官兵衛 (タツ, 2021/8/3 4:35)
- 元寇の惨状経緯と酷似している点 (タツ, 2023/2/13 8:21)
兵庫県佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦い
msg# 1
タツ
投稿数: 2447
このたびのソロツーリングで、兵庫県佐用町にある上月城に登った時のこと、登山遊歩道手前にに次のような説明看板がありました。
引用:
佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦いの経過を要約すると
結果的にこの戦いによって織田軍は天下統一がなされたわけでもなく(1582年6月21日本能寺の変で自害したとされる)、単に城を守る者が次々と犠牲になり上月城が廃城になっただけのように思うのです。
引用:
上月城の沿革と攻防
上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月跡で、中世山城の様態をよく残している。
赤松氏は、播磨・備前・美作三ヵ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441年)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。
天正五年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利氏に与(くみ)した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一万五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃(じじん)して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺しと磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。
秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
再び、尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三万の軍勢を以て、天正六年(1578年)四月十八日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に開城自刃した。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合いの渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。
この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義晃が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。
佐用町観光協会 上月歴史研究会
佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦いの経過を要約すると
- ・1577年 織田軍豊臣秀吉が大将として近くの福原城を攻略後、十二月三日上月城を落城 (この時全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒される)
- ・秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせるが宇喜多勢に攻められ撤退
- ・宇喜多は城を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城(景貞は自刃)
- ・再び秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせる
- ・1578年 四月十八日毛利軍が三万の軍勢を以て城を囲んだ。
- ・秀吉は援軍一万の軍勢で高倉山に陣を進めたが三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。
- ・七月五日秀吉の救援を絶たれ孤立した上月城を守っていた尼子勝久は自刃、山中鹿助は護送中斬殺
- ・上月城廃城
結果的にこの戦いによって織田軍は天下統一がなされたわけでもなく(1582年6月21日本能寺の変で自害したとされる)、単に城を守る者が次々と犠牲になり上月城が廃城になっただけのように思うのです。
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兵庫県佐用町上月城と黒田官兵衛
msg# 1.1
タツ
投稿数: 2447
同じく上月城の登山口前には、織田軍と毛利軍の戦いの内容についてはほぼ同じですが、黒田官兵衛との関わり合いを説明している看板がありました。引用:上月城と黒田官兵衛1577(天正五)年、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将...詳細を見る!
元寇の惨状経緯と酷似している点
msg# 1.2
タツ
投稿数: 2447
引用:この看板で一番驚いたのは、1回目に秀吉により上月城が落城された後、「城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒した」ことです。改めて戦国時代とは実際そういうものだったのかと思ってしまいます。ただ、この戦いの最後に...詳細を見る!
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