元寇の惨状経緯と酷似している点
タツ
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この惨状は元寇の惨状と酷似しています。元寇とは、鎌倉時代1274年・1281年の二度にわたるモンゴル帝国(元朝)の日本侵攻です。年代別にみてみると北条時宗が使節団を斬首したのは元が日本侵攻してきて対馬、壱岐の住民を斬殺したことが原因だとわかります。
さて、元寇までの経緯を年代別にみると(元寇 - Wikipediaより)
つまり元との事前交渉が十分であるかどうかは別にして、元が対馬、壱岐に侵攻し領民を斬殺したという波紋が北条時宗に使節団を斬首させ、多くの鎌倉武士を奮い立たせたという経緯が非常によく似ています。
しかし、元寇に関しても領土侵攻するはっきりとした理由がよく分かりません。つまり領土侵攻する側にとっては理由はなく単に領土がほしいからだという理由に他ならないのです。実は単なる個人の欲あるいは自己満足の為というものかも知れません。約800年経った今も同様のことを繰り返している現状を考えると残念ながら人類が存在する限りこの行為は無くならないかも知れません。
この看板で一番驚いたのは、1回目に秀吉により上月城が落城された後、「城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒した」ことです。改めて戦国時代とは実際そういうものだったのかと思ってしまいます。ただ、この戦いの最後には秀吉が援軍一万に対して毛利軍が三万にも及ぶ大群になったのはこの事が大きな波紋を呼んだのかもしれません。
この惨状は元寇の惨状と酷似しています。元寇とは、鎌倉時代1274年・1281年の二度にわたるモンゴル帝国(元朝)の日本侵攻です。年代別にみてみると北条時宗が使節団を斬首したのは元が日本侵攻してきて対馬、壱岐の住民を斬殺したことが原因だとわかります。
さて、元寇までの経緯を年代別にみると(元寇 - Wikipediaより)
- 1266年~1272年
第一回~六回使節(交渉) - 1274年10月 元が対馬、壱岐に侵攻
1274年(文永11年・至元11年)10月この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
引用:この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している - 1275年2月 第七回使節を斬首
使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した
つまり元との事前交渉が十分であるかどうかは別にして、元が対馬、壱岐に侵攻し領民を斬殺したという波紋が北条時宗に使節団を斬首させ、多くの鎌倉武士を奮い立たせたという経緯が非常によく似ています。
しかし、元寇に関しても領土侵攻するはっきりとした理由がよく分かりません。つまり領土侵攻する側にとっては理由はなく単に領土がほしいからだという理由に他ならないのです。実は単なる個人の欲あるいは自己満足の為というものかも知れません。約800年経った今も同様のことを繰り返している現状を考えると残念ながら人類が存在する限りこの行為は無くならないかも知れません。
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