兵庫県 上月城跡
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兵庫県佐用町は平地より山が多いことから山城が沢山あります。この上月城から城と名の付く場所には半径約2㎞圏内に、福原城、高倉城、櫛田城、飯の山城、早瀬城、丸山城、仁位山城、浅瀬山城、上月城(太平山)、大亀山城などが案内板にあります。ここ上月城(荒神山)は登山入口から遊歩道を登って約30分程度で山頂へ行くことができます。山頂には城郭がなんとなく残っているものの城らしい跡形がほぼありません。ここは戦場となった場所で山頂には供養塔があり、展望は木々に遮られほとんど景色を見ることができませんが、夏真っ盛りというのに涼しい風が吹いています。登ったときの汗もひくほどです。
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このように占領したりされたりと結果的にはこのあと廃城になったようです。戦国時代は城を守るということは命がけの仕事だったことが伺われます。
引用:
上月合戦
戦国時代の天正5年(1577年)から6年にかけて、この城を舞台に合戦が行われました。このとき上月城は、全国統一をめざし中国地方へ侵攻する織田勢と中国の毛利勢との境に位置し交通と防衛の要地でした。
天正5年11月、時の上月藩主、赤松政範は毛利方についていました。織田方の羽柴秀吉軍の侵攻に対して、上月城とともに抗戦した福原城ははやくに落とされ、備前の宇喜多氏の支援群も敗退し、上月城は滅ぼされてしまいます。
秀吉軍と宇喜多軍との激しい戦いが行われた場所は「戦」の地名が残されています。この山頂には赤松政範以下の戦死者を供養する250回忌の供養塔がありますが、秀吉は、上月方の女、子供を磔、串刺しにして国境にさらすなど残酷なことをしたと伝えられています。
秀吉は上月城に尼子勝久、山中鹿介主従を入れ守らせますが、天正6年4月には、毛利方の小早川、吉川らに包囲されます。支援に向かった秀吉は高倉山に陣を置きますが、信長から撤退を命じられたため、2ヶ月以上の籠城の末、尼子勝久は切腹、山中鹿介は捕らえられ毛利軍への連行中に殺されてしまいます。
上月城周辺に残る多くの山城跡は、織田、毛利両軍の一大決戦地であったことを物語っています。
このように占領したりされたりと結果的にはこのあと廃城になったようです。戦国時代は城を守るということは命がけの仕事だったことが伺われます。
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