なぜ韓国は反日、台湾は親日?
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- なぜ韓国は反日、台湾は親日? (タツ, 2023/2/24 7:23)
なぜ韓国は反日、台湾は親日?
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投稿日時 2023/2/24 7:23 | 最終変更
タツ
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かつて日本が統治していた台湾、韓国において、近代化を目指し、教育もインフラ等、同様の事をしているにも関わらず、なぜ台湾は親日、韓国は反日の傾向があるのかということを統治以前の状況から調べ考察してみました。
■まずは台湾の統治する以前の状況を調べてみると
引用:引用:
1895年日清戦争(1894~清が李氏朝鮮に強い支配権を持つという朝鮮半島の権益を巡る争いが原因)での結果、台湾を日本が統治することになったのです。このとき、台湾原住民は中華文明に属さない民として認識されています。つまり国民ではなく統治しているものは誰もいなかったということを示しています。また、他の記事を読むと原住民との間に相当な軋轢があり双方に多くの犠牲を払ったようです。それでも台湾における日本の植民地統治は、当時のニューヨークタイムズの高評価を得ています。
■次に朝鮮を統治する以前の状況を調べてみると
朝鮮半島の権益を巡った日露戦争後の1910年に日韓併合が行われています。それ以前はどうだったのでしょう。
李氏朝鮮王朝時代(1392年~1897年)には身分制度があった記されています。最上位の身分が両班で支配階級で、身分の低いものは市場で奴隷として売買されていたとも記されています。
さて、この両班とは、その実態は
引用:
その頃の朝鮮国内の政治体制は身分制度が設けられ、支配層の最上位は両班で働くこともなく、その既得権益で一般人から搾取し、その罪にも問われないという腐敗した状態だったとされています。この両班ですが、李氏朝鮮(1392年~1897年)初期にはその割合が3%だったのですが末期には7割までになっています。末期の状態を考えると支配されている3割の者が働いて支配層の生計を立てているといっても過言ではないでしょう。つまりこの国の政治体制は誰が考えても独立国として成り立つ状況ではなくいつ崩壊するか分からない腐敗した状況だったと言えます。
日本は朝鮮が独立国として成り立つように1894年~1895年に甲午改革(wikipedia)(国王に身分制度撤廃等の改革)を要求したものの、改革しようとした者が親露派の王妃、閔妃を中心に謀反として咎められ阻止されています。
もし、朝鮮国王が日本によるこの改革案(身分制度撤廃等)を進めれば支配者層である約7割に膨れ上がった両班は既得権益は剥奪され全て失うことになり、猛烈に反発したと考えられます。改革阻止の中心だった親露派の王妃、閔妃の一派はロシアの傘下に入れば両班の現体制がそのまま維持できると考えたか、あるいは亡命も視野に入れていたかもしれません。いずれにせよ、自国が独立国として体をなしていない政治体制だと一番わかっていた国王も成す術はない状況だったと考えられます。しかし改革を阻止したのが王妃、閔妃で、それほどの権力を握っていたとは驚きです。後にこの王妃は暗殺されています。
一方、日本の首相、伊藤博文はこの朝鮮の政治体制を熟知していたはずです。従って、伊藤博文は日韓併合には反対の立場で自浄による朝鮮独立に拘ったのではないでしょうか。結果的には暗殺されたことにより併合の話が進み1910年朝鮮半島は日本に併合されました。
日韓併合後、甲午改革で李氏朝鮮国王も成しえなかった身分制度の撤廃等もこの併合を機に行なわれました。支配層で国民の7割となっていた両班の反発は想像をはるかに超えたものだと思われます。なにしろ身分制度の撤廃により自分の生活が一転し今まで何の罪も受けなかった暴行も収奪も全て罪に問われてしまうのですから。簡単に言うと日本政府は朝鮮の民衆7割以上を敵に回したことになります。当時、もし、現地で身分の低いものが警察官になったならば、両班に対して国家権力を背景にその罪を厳しく問うたことは簡単に想像できます。その逆もしかりです。その反発すべてが当時の日本政府に向けられたと考えられます。
■調べた結果
日清戦争(1894年)も日露戦争(1904年)も朝鮮半島の権益を巡っての戦争だったのです。もし、当時朝鮮が独立国として国を正常に統治し国力を持っていたならば他国に狙われることはなく戦争も起こらなかったかも知れません。残念ながら、この点においては現在も国力(主に経済力、防衛力)が弱体化すれば領土を狙う国との戦争になるという構図に変わりはありません。
さて、台湾は植民地(1895年)、朝鮮は併合(1910年)とされ、日本が近代化を進めたという事実は同じでも、台湾においては前述のとおり支配層が存在していなかった為、そこに近代化を進めても恩恵を受ける人の方が多かったという結果になり、一方、朝鮮では日本の制度(身分制度の撤廃等)を適用した結果、国民の7割とされる支配層であった両班の既得権益も誇りもすべてが剥奪されたことへの反発はいくら国のインフラ、教育に力を入れ近代化しても消えることはなく日本政府に厳しく向けられたと考えられます。両班ではない残り3割の非支配層の国民は日本の併合は良かったと言うかもしれませんが、それは権力を持っていた7割の元両班によってかき消されるでしょう。この反発が今になっても語り継がれ反日に繋がっていると考えられます。
当時の日本政府は台湾での近代化成功例をそのまま朝鮮にも適応できると考えたのではないでしょうか。そういう意味では当時の朝鮮の政治体制を熟知していた伊藤博文の暗殺は悔やまれます。因みに、日本統治が終了した(1945年)後、韓国の初代大統領に就任した李承晩も両班の出身で日本統治時代はアメリカに在住しており経験していませんでした。
■まずは台湾の統治する以前の状況を調べてみると
引用:
台湾の歴史
清帝国は1683年に台湾の鄭氏政権を滅ぼし制圧した。領有には消極的であったが、福建省の統治下に編入したされている。その上で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
大清帝国は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかったために統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における大清帝国の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも大清帝国の主権が及んでいたと主張している。
日本統治時代の台湾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
1904年9月、『タイムズ』と『ニューヨーク・タイムズ』が掲載した「日本人によって劇的な変化を遂げたフォルモサ(台湾の別称)という島」との見出しの「誰もが成しえなかったことを数年で達成した驚くべき成果」「他の植民地国家への一つの教訓」という記事は、「台湾住民を重視した寛容な法治」「学校教育の制度の導入」「鉄道網や銀行・通貨」といった近代化政策の結果、「衝撃的な経済成長で住民は繁栄を享受し、人口も急増した」として、「スペインやオランダが植民地化に乗り出したが失敗に終わった」「(領有する軍事力など)十分な力があった英仏も島の中には足を踏み入れなかった」と指摘し、下関条約に調印した李鴻章が、「台湾がとてつもなく劣悪な島であることに日本はすぐに気づくことになろう、とうそぶいていた」とも書き、日本による「驚くべき成果」として「アヘン吸引者の減少」を取り上げ、「専売制を敷いて許可を受けた吸引者にのみアヘンを売り、収益は全額をアヘン根絶政策にあてた」という対応を、「人々の慣行を可能な限り尊重し、文明化の方向に寛容に導いた」「一つの教訓」と公平に評価した。
1895年日清戦争(1894~清が李氏朝鮮に強い支配権を持つという朝鮮半島の権益を巡る争いが原因)での結果、台湾を日本が統治することになったのです。このとき、台湾原住民は中華文明に属さない民として認識されています。つまり国民ではなく統治しているものは誰もいなかったということを示しています。また、他の記事を読むと原住民との間に相当な軋轢があり双方に多くの犠牲を払ったようです。それでも台湾における日本の植民地統治は、当時のニューヨークタイムズの高評価を得ています。
■次に朝鮮を統治する以前の状況を調べてみると
朝鮮半島の権益を巡った日露戦争後の1910年に日韓併合が行われています。それ以前はどうだったのでしょう。
李氏朝鮮王朝時代(1392年~1897年)には身分制度があった記されています。最上位の身分が両班で支配階級で、身分の低いものは市場で奴隷として売買されていたとも記されています。
さて、この両班とは、その実態は
引用:
両班 wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%8F%AD
両班は、高麗、李氏朝鮮王朝時代(1392年~1897年)の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる朝鮮王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。
概要
王族の次の身分として享受する権益は享受し、権益に見合うだけの義務をほとんど果たすことがなかった。例えば納税や、他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と言われた。兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに様々な特権を持って、常民以下から金銭も払わずに収奪していた。ただし、科挙合格がこれらの特権享受の前提であったため、30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は、12~13歳でも笠を被れた者から「童」と呼ばれて下に扱われた。
イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年に著した『朝鮮紀行』で「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。
これら両班は、李氏朝鮮の国教になった儒教の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うようになった。これが「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われる両班の成立である。
李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%に過ぎなかったと言われている。しかし、慶長の役や後金の役により身分制度が流動化し、李氏朝鮮末期には国民の相当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上両班階級だった。現代の韓国人で、祖先が両班でないという人は珍しい。
その頃の朝鮮国内の政治体制は身分制度が設けられ、支配層の最上位は両班で働くこともなく、その既得権益で一般人から搾取し、その罪にも問われないという腐敗した状態だったとされています。この両班ですが、李氏朝鮮(1392年~1897年)初期にはその割合が3%だったのですが末期には7割までになっています。末期の状態を考えると支配されている3割の者が働いて支配層の生計を立てているといっても過言ではないでしょう。つまりこの国の政治体制は誰が考えても独立国として成り立つ状況ではなくいつ崩壊するか分からない腐敗した状況だったと言えます。
日本は朝鮮が独立国として成り立つように1894年~1895年に甲午改革(wikipedia)(国王に身分制度撤廃等の改革)を要求したものの、改革しようとした者が親露派の王妃、閔妃を中心に謀反として咎められ阻止されています。
もし、朝鮮国王が日本によるこの改革案(身分制度撤廃等)を進めれば支配者層である約7割に膨れ上がった両班は既得権益は剥奪され全て失うことになり、猛烈に反発したと考えられます。改革阻止の中心だった親露派の王妃、閔妃の一派はロシアの傘下に入れば両班の現体制がそのまま維持できると考えたか、あるいは亡命も視野に入れていたかもしれません。いずれにせよ、自国が独立国として体をなしていない政治体制だと一番わかっていた国王も成す術はない状況だったと考えられます。しかし改革を阻止したのが王妃、閔妃で、それほどの権力を握っていたとは驚きです。後にこの王妃は暗殺されています。
一方、日本の首相、伊藤博文はこの朝鮮の政治体制を熟知していたはずです。従って、伊藤博文は日韓併合には反対の立場で自浄による朝鮮独立に拘ったのではないでしょうか。結果的には暗殺されたことにより併合の話が進み1910年朝鮮半島は日本に併合されました。
日韓併合後、甲午改革で李氏朝鮮国王も成しえなかった身分制度の撤廃等もこの併合を機に行なわれました。支配層で国民の7割となっていた両班の反発は想像をはるかに超えたものだと思われます。なにしろ身分制度の撤廃により自分の生活が一転し今まで何の罪も受けなかった暴行も収奪も全て罪に問われてしまうのですから。簡単に言うと日本政府は朝鮮の民衆7割以上を敵に回したことになります。当時、もし、現地で身分の低いものが警察官になったならば、両班に対して国家権力を背景にその罪を厳しく問うたことは簡単に想像できます。その逆もしかりです。その反発すべてが当時の日本政府に向けられたと考えられます。
■調べた結果
日清戦争(1894年)も日露戦争(1904年)も朝鮮半島の権益を巡っての戦争だったのです。もし、当時朝鮮が独立国として国を正常に統治し国力を持っていたならば他国に狙われることはなく戦争も起こらなかったかも知れません。残念ながら、この点においては現在も国力(主に経済力、防衛力)が弱体化すれば領土を狙う国との戦争になるという構図に変わりはありません。
さて、台湾は植民地(1895年)、朝鮮は併合(1910年)とされ、日本が近代化を進めたという事実は同じでも、台湾においては前述のとおり支配層が存在していなかった為、そこに近代化を進めても恩恵を受ける人の方が多かったという結果になり、一方、朝鮮では日本の制度(身分制度の撤廃等)を適用した結果、国民の7割とされる支配層であった両班の既得権益も誇りもすべてが剥奪されたことへの反発はいくら国のインフラ、教育に力を入れ近代化しても消えることはなく日本政府に厳しく向けられたと考えられます。両班ではない残り3割の非支配層の国民は日本の併合は良かったと言うかもしれませんが、それは権力を持っていた7割の元両班によってかき消されるでしょう。この反発が今になっても語り継がれ反日に繋がっていると考えられます。
当時の日本政府は台湾での近代化成功例をそのまま朝鮮にも適応できると考えたのではないでしょうか。そういう意味では当時の朝鮮の政治体制を熟知していた伊藤博文の暗殺は悔やまれます。因みに、日本統治が終了した(1945年)後、韓国の初代大統領に就任した李承晩も両班の出身で日本統治時代はアメリカに在住しており経験していませんでした。
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