日本人を標的にしたテロ

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なし 日本人を標的にしたテロ

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2023/6/16 20:38 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2448
理由はどうあれ、武器を持たない一般人に対して暴力的破壊活動を行うことはテロとみなされる行為です。一般の日本人が標的にされたテロ事件には1920年の尼港事件(赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件、住民6000名の内731人の日本人が犠牲になっています)、1937年の通州事件(中国北京市通州区で中国人部隊により一般の日本人だけを標的にした惨殺事件で200人以上が犠牲になっています)があります。特に通州事件は犠牲者の惨殺方法には深い憎悪があったことが感じられます。

なんと言っても最も多くの一般日本人が犠牲者になったのが第二次世界大戦末期に行われた・東京大空襲(1944年11月24日から1945年8月15日まで米軍による東京の都市を標的として無差別の爆撃で、被災者は約310万人、死者は11万5千人以上)、・広島原爆投下(1945年8月6日米軍による原爆投下で人口35万人(推定)の内、9~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる)、・長崎原爆弾投下(1945年8月9日アメリカ軍による原爆投下で長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡)です。これらは明らかに武器を持たない一般日本人を大量に殺戮することを目的としたテロと同等の行為です。

さて、戦時中とはいえ、もう敗戦寸前という日本に対してアメリカが一般の日本人をなぜそこまでする必要があったのかという疑問が湧いてきます。一般的にはアメリカ側でいう復讐という意味でのリメンバーパールハーバー、何万という一般市民を犠牲にすることで早く戦争をを終わらせたかった、原爆の実験だった、ヤルタ会談の密約等で米国が焦ったなど挙げられています。

この色々な理由の中で最も注目すべきはヤルタ会談の密約にあるのではないでしょうか。第二次世界大戦中には、1939年9月から1945年8月までの間に16回、アメリカ合衆国・イギリス・ソ連・中国の4ヵ国首脳(場合によっては2~3首脳)が戦局に応じて直接会合を持ち、戦略の調整と、戦後構想について頻繁に協議しています。その中でヤルタ会談は終戦末期に行われた戦後処理の会談です。

このヤルタ会談は1945年2月4日から2月11日にかけて当時ソ連領クリミア半島にあるヤルタという場所で行われたアメリカ(ルーズベルト)・イギリス(チャーチル)・ソ連(スターリン)の三国首脳による戦後処理に関する秘密協定です。日本に関する部分では、ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦し、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属などが盛り込まれていました。

これは一見3国による秘密協定のように思えますが、この協定は地の利も生かしたソ連のスターリンの主張に沿う形で進められた、あるいはソ連のスターリンが決定した協定だったと言っても過言ではないでしょう。

その理由は
・アメリカのルーズベルトは病気でほぼ思考力がなく判断できない状態でソ連のスパイ(2名、うち1名は疑いがある-※ヴェノナ文書による)を同行して会談に臨んだ。(ルーズベルトはこの会談の2か月後に死去)
・イギリスのチャーチルは立場も弱く老獪で対抗できなかった。
が挙げられます
引用:
「ヴェノナ文書」とは
アメリカ政府は1995年、ソ連・コミンテルンのスパイたちの交信記録である「ヴェノナ(VENONA)文書」を公開しました。1940年から1944年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗号電文をアメリカ陸軍が密かに傍受し、1943年から1980年までの長期にわたってアメリカ国家安全保障局(NSA)がイギリス情報部と連携して解読した「ヴェノナ作戦」に関わる文書のことです。

そもそもソ連のスターリンにとっては平和という概念よりも領土、共産圏の拡大、国際的な権力を得ることが目的であったと思われます。ヤルタ会談の前に行われたイギリス・チャーチル、ソ連・スターリンによるモスクワ会談(1944年10月9日)でのパーセンテージ協定(スターリンが具体的に国の名前を挙げ領土の分配を%で記しチャーチルに手渡した)でその目的を垣間見ることができます。

さて、このヤルタ会談(1945年2月4日から2月11日)の後、アメリカは日本への攻撃を強めています。実際、東京大空襲では特に1945年 3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だったとされています。 ヤルタ会談ではドイツの降伏後(実際には1945年5月7日)の3ヶ月以内にソ連が対日参戦することになっていることもあり特に5月の空襲が多かったのはこの為ではないでしょうか。さらにアメリカにしてみれば、どのタイミングでソ連が日本に侵攻してくるか、侵攻した場合ヤルタ会談で取り決められた範囲で収まるのかという不安から焦っていたのではないでしょうか。さらに1945年 8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下されました。

一方ソ連は、一連のアメリカの行動、計画の情報(特に原爆の開発、実験、投下場所、日本の戦力等)を大統領側近のソ連のスパイを通してソ連・スターリンは把握していたはずです。ドイツの降伏後3ヶ月以内にソ連が対日参戦するという取り決めにより侵攻は最も日本が弱体化したタイミングを狙うでしょう。それが広島原爆投下後の1945年 8月8日だったと考えられます。無論、ヤルタ会談によって日ソ中立条約を破棄しても国際的に非難されることはありません。またスパイからの情報で日本が1945年 8月15日に日本が降伏し、武装解除したことも把握しているはずです。それ以降も侵攻を継続したことは平和という概念よりもヤルタ会談による領土(南樺太及び千島列島のソ連帰属など)の接収を優先した結果だったのです。

これは想像ですが、スターリンは日本に侵攻したのが1945年 8月8日で、日本が8月15日に降伏するという事を見越していたのではないでしょうか。1週間でヤルタ会談での取り決めた領土(南樺太及び千島列島のソ連帰属など)を奪還できると考えていたと思われます。ところが思わぬ日本軍の反撃にあい8月15日までには達成できなかったということではないでしょうか。アメリカは日本降伏後に日本の領土がソ連によって侵攻され奪還されようとしていてもヤルタ会談の取り決めによりそれを阻止することはできなかったでしょう。もし、ソ連が8月15日までに計画通り取り決めの領土を奪還していたのであればそれ以上の領土(北海道等)を奪還しようとしたでしょう。

ヤルタ会談後での取り決めによってそれぞれの国の思惑が錯綜し、これが大きな原因で日本での多くの一般人がテロと同等の被害を受けたと考えられるのではないでしょうか。当時アメリカは日本をできるだけ早く降伏させアメリカ軍の犠牲を少なくしたいと考えていたとしても、結果的ににこのヤルタ会談密約により、無理な侵略をしようとするソ連軍に対して成す術もなく、これを食い止めようとする日本軍双方に多くの犠牲が出た事実は言うまでもありません。

戦勝国は戦争犯罪があったとしても問われることはありません。戦勝国となるであろう首脳が領土の取り分を事前に秘密裏に取り決めることは戦争犯罪にはならないのでしょうか。ヤルタ会談でのソ連・スターリンの戦略はとても受入れられるものではありません。ソ連(現ロシア)は戦勝国として国連で権力を持っている国ではありますが平和を優先している国かと言うとそうではありません。
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