台湾の金門島へ行ってみて
タツ
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台湾から飛行機で1時間、中国に最も近い島、金門島が台湾領だということは日本では意外とあまり知られていません。この金門島へ行ってみて最初に感じたことは戦争の記録の島だということです。島内には戦車、機関銃、兵士のマネキン、戦争の記念館、墓所等があります。台湾の歴史はかなり複雑です。
日本の敗戦(1945年)後、日本の植民地であった台湾本土を中国に返還した際、もともと台湾の地に住んでいた人達と蒋介石が大陸から送り込んだ台湾を統治するための人達との紛争があったり、また日本の植民地の対象外であったここ金門島でも蒋介石率いる台湾国民党と毛沢東率いる中国共産党の中国内紛の最終的な最前線であったという歴史があります。そのせいか、ここ金門島の海岸では上陸を阻止するため瓶を割ったものや杭を立ててあったり、今は撤去されているようですが地雷などもあったようです。島内には国民党のマークが付いた戦車、旗などが揚げられていることからもわかるように蒋介石がこの内紛で勝利を収め現在も台湾の統治下にあります。<br />
実はこの蒋介石率いる台湾が勝利した裏には公にはされていないようですが、日本人(根本博)の活躍があったとされています。終戦後、密航までして台湾に渡り、蒋介石に義を尽くし、アメリカと戦ったノウハウを生かしてこの金門島で指揮を執ったようです。所謂戦争のプロですよね。なぜそこまでしたかという理由ですが、日本が敗戦したときに蒋介石に多くの日本人の帰国に配慮をしてもらったことと、もともと顔合わせしていた蒋介石と平和思想が似ていたからだそうです。どこまで事実かは分かりませんが十分有り得る話だと思います。<br />
Wikipedia根本博
金門島の横にある小さな島はさらに中国に近い島で小金門島と呼ばれています。現在軍の施設、多くの軍人が働いているようです。というのも金門島からフェリーに乗るとき軍人の料金が半額となっていてそれだけの需要があるということだと思われます。
この小金門島ツーリングしているときにいつの間にか観光コースから外れ、こんなところにレストランがあると思ってよく見てみると兵士のヘルメットが見えたのです。それまでの観光コースからまたマネキンなんだろうとカメラを手にしたとたん笛を吹かれ、何か叫ばれました。マネキンではないことは分かりましたが日本語しかわからない私には意味不明で取り合えず引き返すことにしました。
これは全く私の予備知識不足で、台湾では軍事施設の撮影は禁止とされています。日本と違いこの点には十分留意する必要があります。因みに金門島では高梁酒が名産ですが、包丁も名産です。飛んできた砲弾を原料に包丁を作ったそうです。実に逞しいと思います。また、地元でとれた豆を原料にしたお菓子も名産です。
さて、金門島でもう一つ興味を持ったのが(金門島夜のガイドツアーより)戦争よりもっと前の清朝時代の歴史です。金門島は島国でほとんどこれといった産業がなかった為、島の人たちは外地へ出稼ぎに行き、成功した人が外地の技術とともに地元に帰って最初に家を建てたそうです。その中に洋館があります。金門島で最も大きな洋館、陳景蘭洋楼もその一つです。家を建てた後は、次には先祖を祀り、最後に教育に力を入れたそうです。外地での出稼ぎで教育の重要性を痛感したのだと思われます。
また、金門島には多くの寺のようなものがあります。金門島夜のツアーでのガイドさんの説明によると、これは家の祖先を祀るものと一般的な寺と二種類あり 屋根にある龍の飾りが
龍が内向き(赤)→神様を祀る「宮廟」
龍が外向き(黒)→祖先を祀る「家廟」
と区別されるようです。さらに、内向き龍の間に3つの人形が飾られていることがあります。これは、福・禄・寿、すなわち、幸せ/幸運・給料/お金・寿命/健康を表すものだそうです。
あと、位の高い人と関係がある建造物にはこのような刻印があります。
外地に出て成功を収め故郷に錦を飾るという事が元来中国人の気質のような気がします。ある意味、蒋介石も毛沢東もその中の1人なのかも知れませんね。
日本の敗戦(1945年)後、日本の植民地であった台湾本土を中国に返還した際、もともと台湾の地に住んでいた人達と蒋介石が大陸から送り込んだ台湾を統治するための人達との紛争があったり、また日本の植民地の対象外であったここ金門島でも蒋介石率いる台湾国民党と毛沢東率いる中国共産党の中国内紛の最終的な最前線であったという歴史があります。そのせいか、ここ金門島の海岸では上陸を阻止するため瓶を割ったものや杭を立ててあったり、今は撤去されているようですが地雷などもあったようです。島内には国民党のマークが付いた戦車、旗などが揚げられていることからもわかるように蒋介石がこの内紛で勝利を収め現在も台湾の統治下にあります。<br />
実はこの蒋介石率いる台湾が勝利した裏には公にはされていないようですが、日本人(根本博)の活躍があったとされています。終戦後、密航までして台湾に渡り、蒋介石に義を尽くし、アメリカと戦ったノウハウを生かしてこの金門島で指揮を執ったようです。所謂戦争のプロですよね。なぜそこまでしたかという理由ですが、日本が敗戦したときに蒋介石に多くの日本人の帰国に配慮をしてもらったことと、もともと顔合わせしていた蒋介石と平和思想が似ていたからだそうです。どこまで事実かは分かりませんが十分有り得る話だと思います。<br />
Wikipedia根本博
金門島の横にある小さな島はさらに中国に近い島で小金門島と呼ばれています。現在軍の施設、多くの軍人が働いているようです。というのも金門島からフェリーに乗るとき軍人の料金が半額となっていてそれだけの需要があるということだと思われます。
この小金門島ツーリングしているときにいつの間にか観光コースから外れ、こんなところにレストランがあると思ってよく見てみると兵士のヘルメットが見えたのです。それまでの観光コースからまたマネキンなんだろうとカメラを手にしたとたん笛を吹かれ、何か叫ばれました。マネキンではないことは分かりましたが日本語しかわからない私には意味不明で取り合えず引き返すことにしました。
これは全く私の予備知識不足で、台湾では軍事施設の撮影は禁止とされています。日本と違いこの点には十分留意する必要があります。因みに金門島では高梁酒が名産ですが、包丁も名産です。飛んできた砲弾を原料に包丁を作ったそうです。実に逞しいと思います。また、地元でとれた豆を原料にしたお菓子も名産です。
さて、金門島でもう一つ興味を持ったのが(金門島夜のガイドツアーより)戦争よりもっと前の清朝時代の歴史です。金門島は島国でほとんどこれといった産業がなかった為、島の人たちは外地へ出稼ぎに行き、成功した人が外地の技術とともに地元に帰って最初に家を建てたそうです。その中に洋館があります。金門島で最も大きな洋館、陳景蘭洋楼もその一つです。家を建てた後は、次には先祖を祀り、最後に教育に力を入れたそうです。外地での出稼ぎで教育の重要性を痛感したのだと思われます。
また、金門島には多くの寺のようなものがあります。金門島夜のツアーでのガイドさんの説明によると、これは家の祖先を祀るものと一般的な寺と二種類あり 屋根にある龍の飾りが
龍が内向き(赤)→神様を祀る「宮廟」
龍が外向き(黒)→祖先を祀る「家廟」
と区別されるようです。さらに、内向き龍の間に3つの人形が飾られていることがあります。これは、福・禄・寿、すなわち、幸せ/幸運・給料/お金・寿命/健康を表すものだそうです。
あと、位の高い人と関係がある建造物にはこのような刻印があります。
外地に出て成功を収め故郷に錦を飾るという事が元来中国人の気質のような気がします。ある意味、蒋介石も毛沢東もその中の1人なのかも知れませんね。
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台湾の金門島へ行ってみて
(タツ, 2018/3/26 20:10)
- Re: 台湾の金門島へ行ってみて (タツ, 2018/4/7 7:22)