赤い靴はいた女の子

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なし 赤い靴はいた女の子

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2017/10/15 8:47 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2447
このほど、横浜へ行く機会があり、山下公園にあるという「赤い靴はいた女の子」の銅像をスルーしてしまったこともあり調べてみると、野口雨情の童謡で「赤い靴」には実在した秘話というものがあるとよくつづられています。

始まりは、1973年(昭和48年)野口雨情の童謡、「赤い靴」のモデルとされる「きみ」の異父妹・岡そのが、新聞に私の姉だと投書したことからで、この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始し5年にわたる取材ののち、1978年事実を確認しテレビ放映後、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』出版。これが「定説」として定着したとされる。その後、2007年に矛盾点を突いた「捏造赤い靴をはいていなかった」という阿井渉介の本が出版され否定されています。

モデルだという定説についてはこんな感じです。
引用:
1905年 岩崎かよの私生児である病弱な「きみ」は3才の時アメリカ人宣教師・ヒュエット夫妻に養女として預けられ、再婚した岩崎かよ、鈴木史郎夫妻は北海道の開拓生活を送る
1907年 岩崎かよ、鈴木史郎夫妻は北海道の開拓に失敗し、夫である鈴木史郎は「北鳴新報」という新聞社で働く。この時、同じく働いていた野口雨情と出会い、鈴木史郎が「きみ」の話をしたことにより、赤い靴」の童謡になったのだとされている。また、この年第一子が誕生している。
1908年 ヒュエット夫妻がアメリカへ帰国する際に結核を患っていた「きみ」を東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預ける。
1911年「きみ」は9才で結核の為亡くなる
1913年 新聞に「きみ」は私の姉だと投書した岡そのが生まれる。
1921年 野口雨情によって「赤い靴」が作詞され、翌年作曲される。
1948年 「きみ」の母親、岩崎かよが他界

私はこの2つの本を買ってまで読もうとは思いませんが、確かにこの秘話は出来過ぎたストーリーで具体性に欠けているようにも思えます。一番手っ取り早いのは野口雨情に直接聞くことでしょう。もし可能だとしても本人ははっきりしたことは言わないと思います。そもそも文学の類は読者によって色々な解釈が得られるように作られています。モデルを特定するということはその解釈の幅が狭まってしまうことになり、それは作者が意図していることではないと思われます。しかし、逸話としては非常に興味深くいつまでも語り継がれそうな気がします。

野口雨情は1909年まで北海道で六つの新聞社を転々としていたとされています。この時、鈴木史郎と野口雨情が知り合って情報を得たとしても10年以上の歳月を経てしかも野口雨情がヒットしてからの作品です。私が思うに、もし、定説が真実であれば母親かよがこのヒットした赤い靴をどのように受け止めただろうか。。。傷に塩をすりこむようなものではなかろうか。

今更ですが、像が造られるほどのテレビ放映の大きな影響力には驚かされます。捏造であっても一旦銅像が造られてから実は違ってましたとはなかなか言えないのも事実です。

この『赤い靴はいてた女の子』がテレビ放映された時代はインターネットが普及していない時代です。従って、信頼性はほぼテレビに集中していた為、何の疑いもなく多くの人がノンフィクションとして視聴していたと思います。今の時代であれば放映後すぐに賛否両論の論議が行われたでしょう。
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