Re: 長崎県 原城跡(島原の乱)
タツ
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ソロツーリングで行ってみたかった原城、その近くにある有馬キリシタン遺産記念館を訪れて島原の乱について私は次のように思いました。
島原の乱の原因は1612年5月7日徳川幕府によって処刑されたキリシタン大名有馬晴信の後に赴任し、この島原藩を治めていた松倉重政の失政だとされています。
・そもそもこの藩の財政状態を実際よりも大きく(2~3倍)見積もり、それを幕府へ報告することで幕府へ納める費用が増加していたこと
・この地方の凶作によりさらに取り立てが厳しくなったこと
・他に島原城の築城費用、キリスト教排除のため本拠地ルソン島攻略への派兵費用などが大きく領民の税金に課せられこと
・キリスト教に対する迫害が厳しくなったこと
などが島原の乱に結びついたと考えられています。考えてみれば、厳しい取り立ての一般領民と厳しい迫害を受けているキリスト教徒との目的が合致したことがさらに大きな渦となってこの反乱を引き起こしたように思えます。ということは単なる宗教戦争ではありません。
この元の原因を作った松倉重政は(1630年)に島原の小浜温泉で急死、暗殺との話もあります。そして、跡を継いだ松倉勝家はさらに過酷だったとされています。この時代の一般領民の心理状態を考えると松倉重政が亡くなったことで、ひょっとしたら政策が変わり生活が好転するかも知れないと期待していたに違いありません。ところがさらに過酷になったことで我慢の限界を超してしまったということではないでしょうか。この時島原の乱が勃発します。松倉勝家はこの島原の乱の後、徳川幕府から自分の藩を治められなかったという責任を問われ幕府から処刑されています。
総大将、天草四郎はまだ今でいう高校生の年齢です。私は天草四郎が実際に3万7千の人間を動かしたとはとても思えません。なぜなら敵が攻めてきたときの戦略などは経験者でないと対処できないからです。つまり悪い言い方をすると周りの首謀者にうまく利用されていたと言っても過言ではないでしょう。その中には徳川幕府によって1612年5月7日処刑されたキリシタン大名有馬晴信の若い家臣で、これをきっかけに武士を廃業し農民となり徳川幕府を良く思っていない者たちが加勢し首謀者となっていたとしてもおかしくはありません。
面白いことに3万7千人の頂点に立ったという天草四郎の顔というものは残されていません。ただ、私からすれば当時高校生くらいの年齢なのに、なぜか大人の都合で翻弄されたある意味不遇な少年に思えます。それが良かったのか悪かったのかは本人しか分かり得ません。
また、原城でそのまま籠城が続けば餓死するのは目に見えているはずです。何が餓死寸前まで人々を頑張らせたのか?? キリスト教だから頑張れたという類のものではありません。なぜなら城内はキリスト教徒ばかりではなかったからです。これは籠城の先には外国のキリスト教援軍が来るという希望を持っていたからではないかとも考えられています。幕府もこのことが分かっていて、この希望を潰すべくオランダ船から原城に向かって砲撃させたとされています。まさに心が折れる場面です。
天草四郎の親族を含めた協力関係者はきっとこの件で長崎で外国キリスト教関係者と接触しようとしたに違いありません。ひょっとしたらそれも幕府に見抜かれ阻止されていたかも知れません。もし、この時点で外国キリスト教の援軍が加勢していたら日本の国は大きく変わっていたと思います。また、外国のキリスト教が島原の乱のことを知っていて援軍を出さなかったとしたら当時外国にとって日本という国にそれほどの魅力がなかったかあるいは恐れていたかのどちらかでしょう。
島原の乱の原因は1612年5月7日徳川幕府によって処刑されたキリシタン大名有馬晴信の後に赴任し、この島原藩を治めていた松倉重政の失政だとされています。
・そもそもこの藩の財政状態を実際よりも大きく(2~3倍)見積もり、それを幕府へ報告することで幕府へ納める費用が増加していたこと
・この地方の凶作によりさらに取り立てが厳しくなったこと
・他に島原城の築城費用、キリスト教排除のため本拠地ルソン島攻略への派兵費用などが大きく領民の税金に課せられこと
・キリスト教に対する迫害が厳しくなったこと
などが島原の乱に結びついたと考えられています。考えてみれば、厳しい取り立ての一般領民と厳しい迫害を受けているキリスト教徒との目的が合致したことがさらに大きな渦となってこの反乱を引き起こしたように思えます。ということは単なる宗教戦争ではありません。
この元の原因を作った松倉重政は(1630年)に島原の小浜温泉で急死、暗殺との話もあります。そして、跡を継いだ松倉勝家はさらに過酷だったとされています。この時代の一般領民の心理状態を考えると松倉重政が亡くなったことで、ひょっとしたら政策が変わり生活が好転するかも知れないと期待していたに違いありません。ところがさらに過酷になったことで我慢の限界を超してしまったということではないでしょうか。この時島原の乱が勃発します。松倉勝家はこの島原の乱の後、徳川幕府から自分の藩を治められなかったという責任を問われ幕府から処刑されています。
総大将、天草四郎はまだ今でいう高校生の年齢です。私は天草四郎が実際に3万7千の人間を動かしたとはとても思えません。なぜなら敵が攻めてきたときの戦略などは経験者でないと対処できないからです。つまり悪い言い方をすると周りの首謀者にうまく利用されていたと言っても過言ではないでしょう。その中には徳川幕府によって1612年5月7日処刑されたキリシタン大名有馬晴信の若い家臣で、これをきっかけに武士を廃業し農民となり徳川幕府を良く思っていない者たちが加勢し首謀者となっていたとしてもおかしくはありません。
面白いことに3万7千人の頂点に立ったという天草四郎の顔というものは残されていません。ただ、私からすれば当時高校生くらいの年齢なのに、なぜか大人の都合で翻弄されたある意味不遇な少年に思えます。それが良かったのか悪かったのかは本人しか分かり得ません。
また、原城でそのまま籠城が続けば餓死するのは目に見えているはずです。何が餓死寸前まで人々を頑張らせたのか?? キリスト教だから頑張れたという類のものではありません。なぜなら城内はキリスト教徒ばかりではなかったからです。これは籠城の先には外国のキリスト教援軍が来るという希望を持っていたからではないかとも考えられています。幕府もこのことが分かっていて、この希望を潰すべくオランダ船から原城に向かって砲撃させたとされています。まさに心が折れる場面です。
天草四郎の親族を含めた協力関係者はきっとこの件で長崎で外国キリスト教関係者と接触しようとしたに違いありません。ひょっとしたらそれも幕府に見抜かれ阻止されていたかも知れません。もし、この時点で外国キリスト教の援軍が加勢していたら日本の国は大きく変わっていたと思います。また、外国のキリスト教が島原の乱のことを知っていて援軍を出さなかったとしたら当時外国にとって日本という国にそれほどの魅力がなかったかあるいは恐れていたかのどちらかでしょう。
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長崎県 原城跡(島原の乱)
(タツ, 2010/3/4 7:40)
- Re: 長崎県 原城跡(島原の乱) (タツ, 2015/5/23 9:52)