平家の落人 宮崎県 椎葉村

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なし 平家の落人 宮崎県 椎葉村

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2010/2/19 0:46 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2447
以下は九州地図ナビの中にも全く同じ内容で、「宮崎県 椎葉村」として掲載しています。

【平家落人伝説 】

およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たちが追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ散らばったという平家落人の話は有名です。ここ宮崎県椎葉村もその隠れ里のひとつです。

当時ここも平家落人の存在が源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令されたが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を果たすべくこの椎葉村へやってきました。いざ隠れ住んでいた落人を発見したが、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、追討を断念し幕府には討伐を果たした旨を報告したのです。

普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社(椎葉厳島神社)を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け暮らしたといいます。

3年間の滞在の間に宗久は現地で平清盛の末孫という鶴冨姫という娘と知り合い、恋仲となりました。やがて幕府から、帰還命令が届いた時、鶴富姫はすでに身ごもっていました。

仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、分かれの印に名刀<天国丸>を与え、「生まれた子が男子ならわが故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで椎葉を後にするのです。

そして、女の子が生まれ、後に、婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。

この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡「ひえつき節」なのです。


【私の想像的解釈】

当時の状況として、

源頼朝は
1.壇ノ浦の合戦に勝利し、ほとんど天下をとったも同然の状態である。
2.心配なのは平家の残存勢力が知らないうちに体制の立て直しを図り、再び勢力を増大することである。
3.椎葉村平家落人の存在を耳にし様子が知りたい。

源頼朝から間接的な追討命令を受けた那須大八郎宗久は
1.椎葉村へ行ったものの平家落人に戦意は感じられない。
2.討伐すべきか現地にて葛藤する。

椎葉村平家落人は
1.戦意はないものの、いつ追討されるかわからない不安を持って生活している。
2.生きるためだけに農耕をしている。

と考えられます。


ここで疑問に思うところは、もし、この物語の通り那須大八郎宗久が椎葉村で平家落人討伐の虚偽報告を幕府にしたのであれば、当時、この山奥に平家落人が存在するということが知れるくらいの情報網が発達していたのだから、この虚偽報告もすぐにばれてしまうであろう。とすれば那須大八郎宗久も含め、一家が汚名を負うことになり、下手すれば命の危険にさらされることになる。そんなことをまともにするだろうか?

ここからは想像ではあるが、那須大八郎宗久は幕府に対して平家落人には全く戦意のないことと、自分が現地で見張り役を引き受けると報告したのではないだろうか。こう考えれば全て話が成り立ち、3年後に幕府から帰還命令が下ったこともうなづける。それぞれの立場から考えれば一番良い解決方法だと思う。

私が特に興味を持ったことは、全ての人を受け入れ、平家落人、追討命令を受けた那須大八郎宗久ともに両者の戦意を失わせ、心のゆとりを持たせるほど椎葉村の土地柄になにか素晴らしいものがあったのではなかろうか、平和とはこういうものではないのだろうかということです。

是非訪れてみたい場所の一つです。
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