宮崎県 椎葉村
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800年前の那須大八郎と鶴富姫伝説が有名で、是非訪れてみたいと思っていたこの椎葉村(上椎葉村)、以前は台風後でアプローチできず、やっと機会があり行くことができました。しかも、鶴冨姫屋敷の隣にある旅館に泊まることになりました。那須家の子孫なのでしょうか。那須家32代目が経営する旅館とされています。宿泊した部屋の窓からは鶴冨姫の墓とされている場所が見えます。
アプローチ
ここへのアクセスは悪く、どこを通っても狭い道になってしまうようです。たまたま自分が通った道が狭かったのかも。。。。
私は、鹿児島から霧島へ行き国道256号線を経て迷った挙げ句ここまで辿り着きました。ネットの地図を頼りに調べて行ったのですが、小林から西米良までの265号線は最悪でした。(もっとも、この道に入る前にガソリンスタンドで尋ねたところ酷いとは聞いていましたが)しかも椎葉村に着いてから役場でパンフレットを貰ったのですが、それにはこの道については椎葉村までのアクセスには入っていませんでした。地元の人に聞くと、地元の者も通らんよと。。。。。
実際、道は狭いだけでなく所によっては石が転がり、草が生えていて整備されていません。これってまだ続くの???って途中で投げ出したくなるような長い道でした。結局西米良に抜けるまですれ違ったのは軽トラ1台だけでした。ある意味ここで事故ってしまっても分らないかも知れませんねぇ。ただ救いは山の高い所を通るので向こうに見える山々がなど景色が無茶苦茶に綺麗。自分が山の際立った道を進んでいるのが如実に分ります。
この長い道を抜けてから219号線を反対方向に走ってしまい、反対方向へ途中湯前町にある「サンロード湯前店」で丁度精米している人に道を尋ねると、ちょっと待っててと言って自宅からわざわざ軽四で分かる所まで道案内をしてくれました。単車を停めて待っている時も道行く人がどうしたんだって尋ねてきます。事情を説明していると西米良もこちらの方では椎葉村っていうんだけどなぁとのこと。目的地とはちょっと離れているとは言え、この辺りの人は本当に親切な人が多い。
結局、水上町役場前から142号線で神椎葉村へ。細い道ではあるが整備されているのでまだ安心。鹿児島を8時過ぎに出て着いたのが16時、途中寄り道はしたものの8時間かかってるなぁ。次回、鹿児島から行く場合は人吉を経て行くべし。よく考えたら、今回のツーリングで地図を持って行ってませんでした。人頼りに走るという、このことがまず間違いだったような。。。
観光
800年前の那須大八郎と鶴富姫伝説が「ひえつき節」にも語られています。この歴史を垣間見る観光の目玉はやはり鶴富屋敷、厳島神社でしょう。他には近くに椎葉民俗芸能博物館という所でも色々教えてもらうことができます。
・鶴富屋敷
・厳島神社
・役場と上椎葉村の通り
・椎葉民俗芸能博物館(観光案内所)
・椎葉ダムと女神像
私が訪れた時は平日でしたので特に観光客は少なかったと思います。アクセスが悪いということが原因の1つでしょうが、バスで観光客が押し寄せるということもなくある程度観光地化されていないような場所というのに魅力を感じます。
役場で「たもりめせ椎葉」というパンフレットを貰いました。どうぞお召し上がりくださいという意味だと説明書きがあります。響きの良い言葉です。しかし、飛込みで郷土料理を食べさせてくれる所というのは少ないように思います。
実際、昼間にもかかわらず店を閉めている所もありました。夜、何か食べたくなって「正直屋」という食堂に入ったら店じまいのようでしたが、聞いてみるとチャンポンならできると言われ頂くことになりました。店の人曰く、以前にも食べる所がなくてここへ来た観光客が居たとのこと。
昼の時間であれば開いている店も多いと思うので食べるのが目的であれば昼に着くように行くべし。
以下は参考にしてください。
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【平家落人伝説 】
およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たちが追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ散らばったという平家落人の話は有名です。ここ宮崎県椎葉村もその隠れ里のひとつです。
当時ここも平家落人の存在が源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令されたが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を果たすべくこの椎葉村へやってきました。いざ隠れ住んでいた落人を発見したが、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、追討を断念し幕府には討伐を果たした旨を報告したのです。
普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社(椎葉厳島神社)を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け暮らしたといいます。3年間の滞在の間に宗久は現地で平清盛の末孫という鶴冨姫という娘と知り合い、恋仲となりました。やがて幕府から、帰還命令が届いた時、鶴富姫はすでに身ごもっていました。
仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、分かれの印に名刀<天国丸>を与え、「生まれた子が男子ならわが故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで椎葉を後にするのです。そして、女の子が生まれ、後に、婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡「ひえつき節」なのです。
【私の想像的解釈】
当時の状況として、
源頼朝は
1.壇ノ浦の合戦に勝利し、ほとんど天下をとったも同然の状態である。
2.心配なのは平家の残存勢力が知らないうちに体制の立て直しを図り、再び勢力を増大することである。
3.椎葉村平家落人の存在を耳にし様子が知りたい。
源頼朝から間接的な追討命令を受けた那須大八郎宗久は
1.椎葉村へ行ったものの平家落人に戦意は感じられない。
2.討伐すべきか現地にて葛藤する。
椎葉村平家落人は
1.戦意はないものの、いつ追討されるかわからない不安を持って生活している。
2.生きるためだけに農耕をしている。
と考えられます。
ここで疑問に思うところは、もし、この物語の通り那須大八郎宗久が椎葉村で平家落人討伐の虚偽報告を幕府にしたのであれば、当時、この山奥に平家落人が存在するということが知れるくらいの情報網が発達していたのだから、この虚偽報告もすぐにばれてしまうであろう。とすれば那須大八郎宗久も含め、一家が汚名を負うことになり、下手すれば命の危険にさらされることになる。そんなことをまともにするだろうか?
ここからは想像ではあるが、那須大八郎宗久は幕府に対して平家落人には全く戦意のないことと、自分が現地で見張り役を引き受けると報告したのではないだろうか。こう考えれば全て話が成り立ち、3年後に幕府から帰還命令が下ったこともうなづける。それぞれの立場から考えれば一番良い解決方法だと思う。
私が特に興味を持ったことは、全ての人を受け入れ、平家落人、追討命令を受けた那須大八郎宗久ともに両者の戦意を失わせ、心のゆとりを持たせるほど椎葉村の土地柄になにか素晴らしいものがあったのではなかろうか、平和とはこういうものではないのだろうかということです。
アプローチ
ここへのアクセスは悪く、どこを通っても狭い道になってしまうようです。たまたま自分が通った道が狭かったのかも。。。。
私は、鹿児島から霧島へ行き国道256号線を経て迷った挙げ句ここまで辿り着きました。ネットの地図を頼りに調べて行ったのですが、小林から西米良までの265号線は最悪でした。(もっとも、この道に入る前にガソリンスタンドで尋ねたところ酷いとは聞いていましたが)しかも椎葉村に着いてから役場でパンフレットを貰ったのですが、それにはこの道については椎葉村までのアクセスには入っていませんでした。地元の人に聞くと、地元の者も通らんよと。。。。。
実際、道は狭いだけでなく所によっては石が転がり、草が生えていて整備されていません。これってまだ続くの???って途中で投げ出したくなるような長い道でした。結局西米良に抜けるまですれ違ったのは軽トラ1台だけでした。ある意味ここで事故ってしまっても分らないかも知れませんねぇ。ただ救いは山の高い所を通るので向こうに見える山々がなど景色が無茶苦茶に綺麗。自分が山の際立った道を進んでいるのが如実に分ります。
この長い道を抜けてから219号線を反対方向に走ってしまい、反対方向へ途中湯前町にある「サンロード湯前店」で丁度精米している人に道を尋ねると、ちょっと待っててと言って自宅からわざわざ軽四で分かる所まで道案内をしてくれました。単車を停めて待っている時も道行く人がどうしたんだって尋ねてきます。事情を説明していると西米良もこちらの方では椎葉村っていうんだけどなぁとのこと。目的地とはちょっと離れているとは言え、この辺りの人は本当に親切な人が多い。
結局、水上町役場前から142号線で神椎葉村へ。細い道ではあるが整備されているのでまだ安心。鹿児島を8時過ぎに出て着いたのが16時、途中寄り道はしたものの8時間かかってるなぁ。次回、鹿児島から行く場合は人吉を経て行くべし。よく考えたら、今回のツーリングで地図を持って行ってませんでした。人頼りに走るという、このことがまず間違いだったような。。。
観光
800年前の那須大八郎と鶴富姫伝説が「ひえつき節」にも語られています。この歴史を垣間見る観光の目玉はやはり鶴富屋敷、厳島神社でしょう。他には近くに椎葉民俗芸能博物館という所でも色々教えてもらうことができます。
・鶴富屋敷
・厳島神社
・役場と上椎葉村の通り
・椎葉民俗芸能博物館(観光案内所)
・椎葉ダムと女神像
私が訪れた時は平日でしたので特に観光客は少なかったと思います。アクセスが悪いということが原因の1つでしょうが、バスで観光客が押し寄せるということもなくある程度観光地化されていないような場所というのに魅力を感じます。
役場で「たもりめせ椎葉」というパンフレットを貰いました。どうぞお召し上がりくださいという意味だと説明書きがあります。響きの良い言葉です。しかし、飛込みで郷土料理を食べさせてくれる所というのは少ないように思います。
実際、昼間にもかかわらず店を閉めている所もありました。夜、何か食べたくなって「正直屋」という食堂に入ったら店じまいのようでしたが、聞いてみるとチャンポンならできると言われ頂くことになりました。店の人曰く、以前にも食べる所がなくてここへ来た観光客が居たとのこと。
昼の時間であれば開いている店も多いと思うので食べるのが目的であれば昼に着くように行くべし。
以下は参考にしてください。
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【平家落人伝説 】
およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たちが追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ散らばったという平家落人の話は有名です。ここ宮崎県椎葉村もその隠れ里のひとつです。
当時ここも平家落人の存在が源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令されたが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を果たすべくこの椎葉村へやってきました。いざ隠れ住んでいた落人を発見したが、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、追討を断念し幕府には討伐を果たした旨を報告したのです。
普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社(椎葉厳島神社)を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け暮らしたといいます。3年間の滞在の間に宗久は現地で平清盛の末孫という鶴冨姫という娘と知り合い、恋仲となりました。やがて幕府から、帰還命令が届いた時、鶴富姫はすでに身ごもっていました。
仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、分かれの印に名刀<天国丸>を与え、「生まれた子が男子ならわが故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで椎葉を後にするのです。そして、女の子が生まれ、後に、婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡「ひえつき節」なのです。
【私の想像的解釈】
当時の状況として、
源頼朝は
1.壇ノ浦の合戦に勝利し、ほとんど天下をとったも同然の状態である。
2.心配なのは平家の残存勢力が知らないうちに体制の立て直しを図り、再び勢力を増大することである。
3.椎葉村平家落人の存在を耳にし様子が知りたい。
源頼朝から間接的な追討命令を受けた那須大八郎宗久は
1.椎葉村へ行ったものの平家落人に戦意は感じられない。
2.討伐すべきか現地にて葛藤する。
椎葉村平家落人は
1.戦意はないものの、いつ追討されるかわからない不安を持って生活している。
2.生きるためだけに農耕をしている。
と考えられます。
ここで疑問に思うところは、もし、この物語の通り那須大八郎宗久が椎葉村で平家落人討伐の虚偽報告を幕府にしたのであれば、当時、この山奥に平家落人が存在するということが知れるくらいの情報網が発達していたのだから、この虚偽報告もすぐにばれてしまうであろう。とすれば那須大八郎宗久も含め、一家が汚名を負うことになり、下手すれば命の危険にさらされることになる。そんなことをまともにするだろうか?
ここからは想像ではあるが、那須大八郎宗久は幕府に対して平家落人には全く戦意のないことと、自分が現地で見張り役を引き受けると報告したのではないだろうか。こう考えれば全て話が成り立ち、3年後に幕府から帰還命令が下ったこともうなづける。それぞれの立場から考えれば一番良い解決方法だと思う。
私が特に興味を持ったことは、全ての人を受け入れ、平家落人、追討命令を受けた那須大八郎宗久ともに両者の戦意を失わせ、心のゆとりを持たせるほど椎葉村の土地柄になにか素晴らしいものがあったのではなかろうか、平和とはこういうものではないのだろうかということです。
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