山口県 楊貴妃の里
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楊 貴妃(よう きひ)719年~756年は、確か、中国唐代の皇妃で絶性の美女と言われていたはず。でも、なぜ日本に???。面白いことに楊 貴妃が日本に来たという言い伝えは何箇所かあるようで、この山口県もその1つのようです。日本では奈良時代、西暦756年、玄宗皇帝の時に安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑される所を近衛隊長が密かに船で日本へ亡命させたと、一緒にいた侍女がそう話していて、漂流して日本に流れ着いた時は息も絶え絶えで介抱の甲斐なく亡くなったとのことです。その後、玄宗皇帝の夢枕に楊貴妃が幾度か立ち、流れ着いた日本へ家臣を派遣したのですがどこに漂着したか分からず、京都の清涼寺へ二尊仏を預けて帰国したとされています。逸話かどうかは別にしてこういう浪漫のある話っていいですよね。
ここには楊 貴妃の墓、像が設置されています。中国の陜西省興平県馬嵬坡(せんせいしょうこうへいけんばかいは)にある楊貴妃の像と同じものとされています。しかし、この像って本当に本人に似てるのでしょうか? 肩から腰にかけての流線型は非常に素晴らしい。現代人にはなかなか存在しない体型だと思います。そもそも、息子の妻だった楊貴妃を玄宗皇帝があまりにも美しいから自分の物にしてしまうというほどの美貌。楊貴妃はどのように思ったのでしょうね。運命と諦めたのでしょうか。時代によって、個人の感覚によっても美人という基準が違うかも知れませんが、受けが良い性格の女性はいつの時代も重宝されるもです。
ここには楊 貴妃の墓、像が設置されています。中国の陜西省興平県馬嵬坡(せんせいしょうこうへいけんばかいは)にある楊貴妃の像と同じものとされています。しかし、この像って本当に本人に似てるのでしょうか? 肩から腰にかけての流線型は非常に素晴らしい。現代人にはなかなか存在しない体型だと思います。そもそも、息子の妻だった楊貴妃を玄宗皇帝があまりにも美しいから自分の物にしてしまうというほどの美貌。楊貴妃はどのように思ったのでしょうね。運命と諦めたのでしょうか。時代によって、個人の感覚によっても美人という基準が違うかも知れませんが、受けが良い性格の女性はいつの時代も重宝されるもです。
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