長崎県 軍艦島
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ここは長崎に来て外せない場所です。もともとは端島(はしま)と呼ばれていたこの島は、1890年から100年以上にわたり三菱の私有地となり、海底の石炭を採掘する島として利用され、約480メートル、東西に約160メートルという狭い場所に人口がピーク時には5千人が住んでいたようです。所狭しと高層アパートが立ち並び、石炭での発電で煙が立ち、遠くから見ると軍艦に見えることから軍艦島と呼ばれています。1974年(昭和49年)1月15日に閉山しましたが、その当時でも2千人が残っていたようです。今も住居にテレビ等の家財道具が残っているのは、その閉山後3カ月で島を出るように通達されたものの、あまりにも急な為、残して出て行ったものだと思われます。その後、廃墟の無人島となり、建物も崩壊の危険性があり何年か前まで立入禁止となっていました。
現在でもだんだんと屋根が崩れ落ちている場所が見受けられるものの、島内の後部にある一部だけ安全区域を確保し、その区域のみ観光で上陸することができるようになっています。この島は世界遺産への登録を目指しているとのこと。また、船でしか行くことができないこの軍艦島ツアーなるもの5社あるそうです。どのツアー会社も島へ観光目的の上陸時間は40分と定められているとのこと。
上陸の様子
上陸後
この軍艦島の興味深いところは、一般とはかけ離れた近代化が進んでいたことです。島内で採掘される石炭がこの時代の大きなエネルギー資源として活用され、島内の近代化に拍車をかけたようです。
当時、島内の労働者は炭鉱の工員がほとんどで、死の危険を伴う労働ということで給与水準は高くガイドの話によると月収平均14万円位だったとか。もし、昭和30年代であれば一般サラリーマンの給与が月2万~3万と考えれば破格だと思います。さらに、職階・身分によって、住宅の位置・広さ、風呂など身分制度が確立されていたようです。因みに身分の高い人は日当たりの良い高い場所に住み、月収は50万円位だったという。また、勤続年数、貢献度によっても生活条件が変わってくるらしい。そうであれば、実に飴と鞭をうまく使い分けている。ただ聞いた話なのでどこまで本当なのかは不明です。
住居に関しても1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の住宅が建設され、その後も高層住宅、学校、商店、娯楽施設等が建設され、すべての生活がこの狭い島内で完結していたという。また各家庭の生活水準も高く、テレビ、冷蔵庫などの電化製品が高くて手に届かない時代にほぼ100%各家庭にあったそうです。これは実際に住居に残されている物から本当の話だと推測されます。
島の周り
島内での問題は水だったといわれていますが、これも、1957(昭和32)年にパイプラインが完成することで解消されたとのこと。それまでは、船で真水を運んだりしていましたが人口の割に全く供給が不足していたようです。水に関する犯罪が多かったと言われています。
そもそも廃墟になった最大の原因はエネルギー政策シフトが石炭から石油に代わったことが最大の原因です。考えてみれば今の石油もいつまで持つだろうか。次世代のエネルギーは危険な原子力でも非力な太陽光発電でもありません。今後は、奇想天外なエネルギーが発見されない限りやはり、地下を掘って掘りあてる天然ガスか、あるいは水素ガスということになるでしょう。もうそろそろエネルギー政策が変更される時代に移行するのではないでしょうか? その時もどこかでこのような負の遺産が発生するのでしょうか? 無駄のないエネルギー政策シフト移行を望みたいものです。
私が利用した軍艦島ツアーは軍艦島コンシェルジュという朝10時から13時までのツアーです。たまたま当日朝連絡すると参加可能だったからです。発着場の近くに大浦天主堂、グラバー園があり、多くの人はそのまま示し合せたようにグラバー園に入園していました。人の行動って面白いですねぇ。
現在でもだんだんと屋根が崩れ落ちている場所が見受けられるものの、島内の後部にある一部だけ安全区域を確保し、その区域のみ観光で上陸することができるようになっています。この島は世界遺産への登録を目指しているとのこと。また、船でしか行くことができないこの軍艦島ツアーなるもの5社あるそうです。どのツアー会社も島へ観光目的の上陸時間は40分と定められているとのこと。
上陸の様子
上陸後
この軍艦島の興味深いところは、一般とはかけ離れた近代化が進んでいたことです。島内で採掘される石炭がこの時代の大きなエネルギー資源として活用され、島内の近代化に拍車をかけたようです。
当時、島内の労働者は炭鉱の工員がほとんどで、死の危険を伴う労働ということで給与水準は高くガイドの話によると月収平均14万円位だったとか。もし、昭和30年代であれば一般サラリーマンの給与が月2万~3万と考えれば破格だと思います。さらに、職階・身分によって、住宅の位置・広さ、風呂など身分制度が確立されていたようです。因みに身分の高い人は日当たりの良い高い場所に住み、月収は50万円位だったという。また、勤続年数、貢献度によっても生活条件が変わってくるらしい。そうであれば、実に飴と鞭をうまく使い分けている。ただ聞いた話なのでどこまで本当なのかは不明です。
住居に関しても1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の住宅が建設され、その後も高層住宅、学校、商店、娯楽施設等が建設され、すべての生活がこの狭い島内で完結していたという。また各家庭の生活水準も高く、テレビ、冷蔵庫などの電化製品が高くて手に届かない時代にほぼ100%各家庭にあったそうです。これは実際に住居に残されている物から本当の話だと推測されます。
島の周り
島内での問題は水だったといわれていますが、これも、1957(昭和32)年にパイプラインが完成することで解消されたとのこと。それまでは、船で真水を運んだりしていましたが人口の割に全く供給が不足していたようです。水に関する犯罪が多かったと言われています。
そもそも廃墟になった最大の原因はエネルギー政策シフトが石炭から石油に代わったことが最大の原因です。考えてみれば今の石油もいつまで持つだろうか。次世代のエネルギーは危険な原子力でも非力な太陽光発電でもありません。今後は、奇想天外なエネルギーが発見されない限りやはり、地下を掘って掘りあてる天然ガスか、あるいは水素ガスということになるでしょう。もうそろそろエネルギー政策が変更される時代に移行するのではないでしょうか? その時もどこかでこのような負の遺産が発生するのでしょうか? 無駄のないエネルギー政策シフト移行を望みたいものです。
私が利用した軍艦島ツアーは軍艦島コンシェルジュという朝10時から13時までのツアーです。たまたま当日朝連絡すると参加可能だったからです。発着場の近くに大浦天主堂、グラバー園があり、多くの人はそのまま示し合せたようにグラバー園に入園していました。人の行動って面白いですねぇ。
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