長崎県 原城跡

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2015/5/6 21:19 投稿者:  タツ  (記事一覧)  [ 6295hit ]

原城跡入口
原城跡入口
原城跡の駐車場
原城跡の駐車場
原城跡
原城跡
 
やっと来たいと思っていた原城跡に到着、この原城は1496年当時の藩主有馬貴純によって日野江城の支城として築城されたものです。本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸で構成されています。もともと平らだったみたいで城らしきものはありません。本の丸は公園のようになっていて、北村西望による祈りをささげる天草四郎像、他に大きな十字架のモニュメントがあるだけです。周りにはちょっとした石垣があり、城として背後に海を見渡せ、要塞としての機能がうかがわれます。でも景色は綺麗で満足。ここが、島原の乱の舞台となった場所です。

原城本の丸跡の様子



本の丸周辺


島原の乱の原因は1612年5月7日徳川幕府によって処刑されたキリシタン大名有馬晴信の後に赴任し、この島原藩を治めていた松倉重政の失政だとされています。そもそもこの藩の財政状態を実際よりも大きく(2~3倍)見積もり、それを幕府へ報告することで幕府へ納める費用が増加したこと、この地方の凶作によりさらに厳しくなったこと、他に島原城の築城費用、キリスト教排除のため本拠地ルソン島攻略への派兵費用などが大きく領民の税金に課せられこと、またキリスト教に対する迫害が厳しくなったことなどが島原の乱に結びついたと考えられています。

この元の原因を作った松倉重政は(1630年)に小浜温泉で急死、跡を継いだ松倉勝家はさらに過酷だったとされ、この時島原の乱が勃発します。この島原の乱の後幕府から自分の藩を治められなかったという責任を問われ幕府から処刑されています。この時代の一般領民の心理状態を考えると松倉重政が亡くなったことで、ひょっとしたら政策が変わり生活が好転するかも知れないと期待していたに違いありません。ところがさらに過酷になったことで我慢の限界を超してしまったということではないでしょうか。

考えてみれば、厳しい取り立ての一般領民と厳しい迫害を受けているキリスト教徒との目的が合致したことがさらに大きな渦となって反乱に至ったように思えます。ということは単なる宗教戦争ではないでしょう。また、当時籠城している人達の希望となるものは外国からのキリスト教徒の援軍だったように思えます。それは不安以外のなにものでもない神頼みだったと言えます。

面白いことに3万7千人の頂点に立ったという天草四郎の顔というものは残されていません。ただ、私からすれば当時高校生くらいの年齢なのに、なぜか大人の都合で翻弄されたある意味不遇な少年に思えます。それが良かったのか悪かったのかは本人しか分かり得ません。

 
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