広島県 因島水軍城
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因島を走っていると水軍城の標識がやたらと目立ちます。取りあえず行ってみるかなとそちらの方向へ行ってみました。近づくと、やたらと旗が上がっていて、上の方に城が見えます。夕方だったせいか人もまばらで上へ上へと上がるとなかなか奇麗な城があります。眺望は墓が一面にあり、水軍の城という割には全然海が見えません。イメージが普通の城と一緒???? なのに水軍城???
中庄の地域の移り変わりという看板にはこう書かれています。
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今から約700年前昔京都加茂神社の荘園で、中御荘(なかのみしょう)と呼ばれた中庄は古くから因島を中心として発達し、南北朝時代から戦国期にかけて村上水軍の本拠地として広く海外に名をとどろかせました。往時の中庄は入江が深く入っていたといわれています。
関ヶ原の合戦後、村上氏が防長(山口県)に移ってからは、平和な一農村として歩み続けました。まず農村経営の基礎になると血について、戦国時代から江戸時代にかけて、次々海面を埋め立て耕地を開拓して来ました。時代は移りその土地に、学校や工場、民家ができ現在に至っております。
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要は昔の入江は埋められて見えなくなってしまったということですね。ガイドにはこの水軍城は昭和58年12月1日に築城されたとされています。ここから見える多くの「金蓮寺(こんれんじ)」の墓は村上水軍の墓の墓のようです。そもそも村上水軍とは因島村上・能島村上・来島村上の瀬戸内海で活動した三家の海賊水軍を指しているようです。このうちここの因島村上は戦国時代には現在の山口県に本拠を移したことになります。
中庄の地域の移り変わりという看板にはこう書かれています。
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今から約700年前昔京都加茂神社の荘園で、中御荘(なかのみしょう)と呼ばれた中庄は古くから因島を中心として発達し、南北朝時代から戦国期にかけて村上水軍の本拠地として広く海外に名をとどろかせました。往時の中庄は入江が深く入っていたといわれています。
関ヶ原の合戦後、村上氏が防長(山口県)に移ってからは、平和な一農村として歩み続けました。まず農村経営の基礎になると血について、戦国時代から江戸時代にかけて、次々海面を埋め立て耕地を開拓して来ました。時代は移りその土地に、学校や工場、民家ができ現在に至っております。
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要は昔の入江は埋められて見えなくなってしまったということですね。ガイドにはこの水軍城は昭和58年12月1日に築城されたとされています。ここから見える多くの「金蓮寺(こんれんじ)」の墓は村上水軍の墓の墓のようです。そもそも村上水軍とは因島村上・能島村上・来島村上の瀬戸内海で活動した三家の海賊水軍を指しているようです。このうちここの因島村上は戦国時代には現在の山口県に本拠を移したことになります。
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